ずっと楽しみにしていた細野さんの2019年アメリカツアーのドキュメンタリー映画「SAYONARA AMERICA」を観に。クールで時に熱いライブ映像に、いろんな時代のリアルとフィクションが折り重なって、深いメッセージとトリップ感のある映画だった。一晩経った今も覚めやらず、感想文を書いてみる。
「SAYONARA AMERICA」のキャッチコピー「In Memories of No-Masking World」が映画の冒頭にさりげなく映る。コロナ以前の映像を観ると誰もが抱く感慨と嘆息... 「だれもマスクしてないな」「ハグしてる」「あんなにぎっしりお客さん入ってて密だなー」。きっと近い将来パンデミック宣言が *エンデミック宣言に移行しても、特に日本人にはマスクを手放さない人や人混みを避ける人が一定数残り続ける気がする。
NYとLAのライブ会場は、どちらも古風で丁度いいサイズのライブハウス。東京で言えば、歌舞伎町時代のリキッドルームや東京キネマ倶楽部を連想するような小屋に、ぎっしりとスタンディングで入ったお客さん。会場の入り口でインタビューを受けているのは、アメリカ各地から集った熱心な老若男女の細野ファン。みんな会ったらすぐ友だちになれそうな親しみを覚える(笑)
古めのライブハウスに派手な演出や照明も無い中、50年代のスタイルでアレンジされた様々な年代の細野さんの曲やカヴァーが淡々と演奏される。2019年なのにすごく前の映像のようにも見えて、だんだんといつの映像なのかわからなくなってくる。お馴染みの若手バンドのサポートは盤石で最強のバランス。高田漣君と伊藤大地君は時に熱く、野村卓史君と伊賀航君は終始クール。
中盤、今年の夏に撮られた細野さんの映像とコメントが挿入される。コロナ以降ほとんど人にも会わずライブもせず、長髪になった細野さん。そこで語られていることはとても暗示的だった。そういえば90年代にポップ・ミュージックから距離を置いてアンビエントの世界に潜っていた細野さんも長髪だった。
後半、ライブ映像に古いモノクロの映像がオーバーラップして、さらに時間軸が捻じれる。あの曲を歌うオリジナル歌手(イケメン)のピアノの上に妖しいダンサーがキノコ雲のような煙と共に現れ消えたり。あの曲の前には、インスパイアの元になった映画の冒頭のシーンがインサートされたり。そのアレがウイルスを連想させたり。ネタバレなのでこのくらいで。
話は逸れるが、なぜ報道では「来日した人が飛行機のタラップから降りてくる映像」を象徴的に使い続けるのか?について、昨日考えていた。思い当たったのが、有名なマッカーサー来日時の写真。当時の日本人にとって抗うことのできない絶対的勝利者であり、遠い国からやってきた使者として我々に潜在的に刷り込まれたこのイメージを追いかけて、今もタラップを降りる画を用いてしまうのかも?と推察したりしていた(海外の映像でも同じカットはよくあるので、考えすぎかもしれない)。
「SAYONARA AMERICA」の終盤、細野さんのMCの中でまさにこのマッカーサーの画像がインサートされて、シンクロニシティにハッとした。今に至る日本を形作った、強きアメリカの象徴。映画に冠された「さよならアメリカ」のタイトルは、もちろん1973年のはっぴいえんどの「さよならアメリカさよならニッポン」からのリサンプリングでもあるが、今回はアメリカだけにサヨナラが告げられる。
エンドロールで流れる新録の「さよならアメリカさよならニッポン」は鎮魂歌のように厳かに始まり、うっすらニューオリンズ風のリズムやピアノに、後半沖縄のカスタネット・三板(サンバ)のようなパーカッションが色を添えて、はかなく消える。
あらためて「In Memories of No-Masking World」のフレーズの妙について思いを巡らす。「Mask」はもちろんマスクのことだが、そういえば「マスキングテープ」っていうのもあるな、と調べてみると、【「マスキング」は「覆い隠す」の意味で専門的には「養生」と呼ばれ ...】などとwikiにもある。
目に見えないウイルスとフェイクニュースに翻弄され混沌を極めるMasking World・2021の暮れ。この目で見届けたはずのドキュメンタリー映画は、夢か現か幻か?モノクロの極彩色に満ちていた。そんな細野さんの迷宮でさ迷い続けるファンは、幸せものです。細野さん、末永く養生してこれからもクラクラさせてください。
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